北里柴三郎の生涯
北里柴三郎は、1853年1月29日(旧暦嘉永5年12月20日)、現在の熊本県阿蘇郡小国町北里で代々庄屋を務める家に生まれた。
1871(明治4)年、18歳で古城医学所兼病院(現、熊本大学医学部)にて、オランダ人軍医マンスフェルトに師事し医学への道を志した。
1874(明治7)年、東京医学校(現、東京大学医学部)に入学し、在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事につくことを決意した。その志を実践するため、1883(明治16)年、卒業後、内務省衛生局に入局した。
1886(明治19)年からの6年間、ドイツに留学。病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事し研究に励んだ。留学中の1889(明治22)年に破傷風菌の純粋培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見し、それを応用して血清療法を確立した。この業績により、一躍世界的な研究者として名声を博した。

破傷風の血清療法確立を記念して
1892(明治25)年、帰国後間もなく、福澤諭吉らの支援の下、私立伝染病研究所(のち、国に寄付して国立となる)を創立。伝染病予防と細菌学の研究に取り組んだ。翌年、日本最初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設し結核予防と治療に尽力した。また、1894(明治27)年、香港で蔓延したペストの原因調査のため現地に赴きペスト菌を発見した。
1914(大正3)年、伝染病研究所が内務省から文部省に移管された。これを機に所長を辞任し新たな医学研究機関「北里研究所」を創立して初志を貫いた。多くの優秀な門下生を輩出し細菌学・免疫学の講習会を実施するなど、教育活動や衛生行政等の分野でも大きく貢献した。
1917(大正6)年、慶應義塾大学部医学科を創設、初代医学科長に就任、さらに日本医師会などの各種医学団体および病院の設立など社会活動にも従事した。
近代日本医学の礎を築いた北里柴三郎は、1931(昭和6)年6月13日、脳溢血により78年の生涯を閉じた。

北里研究所本館建物(大正時代の頃)
略年譜(1853 - 1931)
嘉永6年
1月29日(旧暦嘉永5年12月20日)、父惟信・母貞の長男として現在の熊本県阿蘇郡小国町北里に生まれる
明治4年 18歳
古城医学所兼病院(現、熊本大学医学部)にて、オランダ人軍医マンスフェルトに師事し医学への道を志す
明治7年 21歳
11月 東京医学校(現在、東京大学医学部)に入学
明治16年 30歳
4月 松尾乕と結婚
4月 東京大学医学部を卒業、内務省衛生局に入局
明治18年 32歳
11月 ドイツ留学を命じられる
明治19年 32歳
1月 ベルリン大学のローベルト・コッホに師事する
明治22年 36歳
4月27日 破傷風菌の純粋培養に成功する
明治23年 37歳
12月4日 破傷風菌抗毒素(免疫体)の発見、血清療法の確立
明治25年 39歳
5月 帰国し内務省に復職
11月 芝区芝公園に私立伝染病研究所を創立
明治26年 40歳
9月 日本で最初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設
明治27年 41歳
2月 伝染病研究所を芝区愛宕町に移転
6月 ペストの原因調査のため香港に赴き、ペスト菌を発見する
明治32年 46歳
伝染病研究所が国立となり内務省の管轄となる
明治39年 53歳
4月 第2回 日本連合医学会(現、日本医学会)会頭を務める
6月 国立伝染病研究所を芝区白金台町に移転・竣工
11月 落成式を行う
明治41年 55歳
6月 恩師ローベルト・コッホ夫妻来日、日本各地を案内する
明治43年 57歳
5月 ローベルト・コッホ逝去 翌年、伝染病研究所内にコッホ祠を建立する
明治44年 58歳
8月 恩賜財団済生会評議員となる
9月 恩賜財団済生会医務主管に就任
大正2年 60歳
2月 日本結核予防協会を設立、理事長に就任
大正3年 61歳
11月5日 伝染病研究所が内務省から文部省に移管されることになり、所長を辞任
同日、土筆ヶ岡養生園の一角に私立北里研究所(芝区白金三光町)を創立
大正4年 62歳
10月 恩賜財団済生会芝病院(現、東京都済生会中央病院)初代院長に就任
11月 北里研究所所屋竣工、12月11日、恩師ローベルト・コッホの誕生日に開所式を行う
大正5年 63歳
8月 生誕地 熊本県阿蘇郡小国町に「北里文庫」を寄贈
大正6年 64歳
4月 慶應義塾大学部医学科を創設、初代医学科長に就任
大正7年 65歳
10月 北里研究所が社団法人として認可される
大正12年 70歳
11月 医師会令の法案成立により日本医師会を創設、初代会長に就任
大正15年 73歳
5月 妻乕逝去
昭和6年 78歳
6月13日、脳溢血により逝去
青山斎場で葬儀、青山墓地に葬られる