北里柴三郎の門下生

北里柴三郎は、伝染病研究所から北里研究所時代まで40年余りの研究生活の中で多くの弟子を指導し、大勢の優秀な門下生を輩出した。

  • 浅川 範彦(あさかわ のりひこ)Open or Close

    慶応1年
    1月(旧暦)、高知県土佐郡秦村に生まれる

    明治16年
    高知医学校を卒業し上京、済生学舎に入学

    明治17年
    医術開業試験に合格、その後5年間ドイツ語を学ぶ

    明治22年
    開業免許を取得し帰郷、高知病院副院長を経て大津病院に勤務

    明治27年
    私立伝染病研究所に入所

    明治29年
    国立血清薬院も兼務

    明治32年
    国立伝染病研究所部長、主業務は講習生の指導

    明治34年
    「赤血球内空胞様体形成の研究ほか」により医学博士号取得

    明治40年
    1月10日逝去(42歳)



    研究分野と業績:腸チフス診断薬及び丹毒治療薬の創製、講習会の教科書として『実習細菌学上・下』を執筆

  • 石神 亨(いしがみ とおる)Open or Close

    安政4年
    7月13日(旧暦)、熊本県玉名郡山北村に吉永喜平の長男として誕生

    明治6年
    古城医学校に入学し、古城病院長の内藤泰吉の指導を受ける

    明治10年
    西南戦争の時に、熊本県の臨時雇いとして官軍の傷病兵の治療にあたる

    明治11年
    師の内藤泰吉の推薦で熊本県南郷に南郷病院を開き、更に翌年、熊本県堅志田で堅志田公立病院を開業
     

    明治16年
    東京で医術開業試験に合格、内外科医術開業免除を受ける
    海軍軍医補に採用され、横須賀官軍病院勤務

    明治21年
    海軍軍医部長石神豊民の娘八重子と結婚、石神姓を名乗る

    明治24年
    海軍軍艦回航のため欧州へ出張し、ベルリンで北里博士に会う

    明治25年
    12月に退艦し、創立当初の私立伝染病研究所に入所

    明治26年
    ツツガムシ病の病原調査のため新潟へ出張

    明治27年
    ペスト調査のため、北里、青山両博士と共に香港へ出張、ペストに罹患

    明治28年
    日清戦争のため、海軍に召集される

    明治29年
    大阪郊外の桃山で、血清、ワクチンの製造、痘苗研究等を開始

    明治30年
    大阪に「石神病院」を開くと共に大阪私立伝染病研究所を設立

    明治31年
    痘苗製造所技師に任ぜられ、大阪痘苗製造所所長となる

    明治35年
    大阪府下の海岸に石神療養所(結核のための)を開設

    大正1年
    大阪結核予防協会設立、理事として参画

    大正8年
    12月15日逝去(61才)、遺言により解剖に付された



    その他所外業務:著書『ペスト』を編纂

  • 上野 太郎(うえの たろう)Open or Close

    明治7年
    1月13日、富山市諏訪河原に生まれる

    明治27年
    20歳で上京、国立血清薬院に入職

    明治38年
    血清薬院の国立伝染病研究所への合併に伴い、同研究所へ移籍

    大正3年
    国立伝染病研究所を依願免職、北里研究所創立に参画

    昭和17年
    北里研究所事務長

    昭和25年
    北里研究所社員

    昭和34年
    1月10日逝去(84歳)、北里研究所葬

  • 梅野 信吉(うめの しんきち)Open or Close

    文久2 年
    1月13日(旧暦)、福岡県朝倉郡甘木町に生まれる

    明治17年
    私立獣医学校(現:日本獣医生命科学大学前身)を卒業

    明治19年
    福岡県獣医巡回教師に任命される

    明治25年
    私立伝染病研究所の牛痘種継所の動物主任及び製苗主任

    明治29年
    国立血清薬院技手

    明治32年
    国立伝染病研究所助手となり、痘苗製造所を兼務

    明治34年
    牛痘苗の犢体継続法を発明し純牛痘苗の創製に成功

    明治39年
    純牛痘苗の創製により勲六等単光旭日章受章

    明治41年
    「痘苗牛体継続法の研究」により獣医学博士号取得

    明治45年
    勲四等に叙せられる

    大正3年
    国立伝染病研究所及び内務技師を依願免職、北里研究所の創立に参画
    北里研究所部長、その後、北里研究所社員(1918年-1930年)に任ぜられ、北里研究所監事(1924年-1930年)を務める

    大正5年
    犬体用狂犬病予防液の創製に取り組む(1916年~1918年かけて)

    大正8年
    私立日本獣医学校(現:日本獣医生命科学大学)第4代校長就任

    昭和5年
    3月12日逝去(67歳)、勲三等瑞宝章受章



    研究分野と業績:純牛痘苗の創製、犬体用狂犬病予防液の創製、馬の腺疫病原の研究と腺疫予防液の創製

  • 大谷 彬亮(おおたに もりすけ)Open or Close

    明治13年
    6月13日、長崎県南高来郡神代村にて、志波三九郎彬孝の三男として生まれる

    明治31年
    大谷周庵(長崎県立病院長)の養子となり大谷姓を名乗る

    明治39年
    京都帝国大学医科大学を卒業し、同大学の副手となる

    明治41年
    上京し国立伝染病研究所に入所
    3ヶ月後、長崎に帰郷し大谷内科診療所で働く

    明治43年
    東京に戻り、国立伝染病研究所技手となる

    大正2年
    ドイツ留学、ザクセンの国立血清学研究所で研究中欧州大戦が勃発

    大正3年
    帰国
    国立伝染病研究所及び内務技師を依願免職
    北里研究所の創立に参画、北里研究所部長、臨床部を担当

    大正6年
    北里研究所附属病院副院長

    大正7年
    「クエン酸加血液の喰菌促進作用の研究」により医学博士号取得

    大正9年
    慶應義塾大学医学部教授、内科学を担当
    「血漿喰菌促進作用の研究」により浅川賞受賞

    大正12年
    恩賜財団済生会病院の2代目病院長に任ぜられる(現: 東京都中央済生会病院)
    慶應義塾大学医学部教授は辞任し、講師として務める

    昭和6年
    北里研究所附属病院院長(北里柴三郎院長逝去のため)
    恩賜財団済生会病院長を辞任(現: 東京都中央済生会病院)

    昭和7年
    土筆ケ岡養生園園長
    実弟の志波正孝と共に東京府立川に諏訪農園を開く

    昭和14年
    1月13日、逝去(58歳)



    研究分野:結核の刺激療法
    その他業務:土筆ケ岡養生園園長、恩賜財団済生会病院長