北里柴三郎の門下生
北里柴三郎は、伝染病研究所から北里研究所時代まで40年余りの研究生活の中で多くの弟子を指導し、大勢の優秀な門下生を輩出した。
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高木 友枝(たかぎ ともえ)Open or Close
安政5年
8月2日(旧暦)、福島県磐城(いわき)市に生まれる明治18年
東京大学医学部を卒業し、福井県立病院長を務める
3年後に鹿児島病院長となる明治26年
私立伝染病研究所に入所明治27年
北里博士らのペスト調査の事後処理のため、香港へ派遣される明治28年
私立伝染病研究所の治療部長となる明治29年
内務技官として登用され、血清薬院長となる明治30年
ドイツへ留学(2年間)明治33年
内務省衛生局防疫課長を兼務する明治35年
台湾総督府医院長となり、台湾総督府医学校長を務める明治42年
台湾総督府研究所を創設、初代所長大正2年
「中枢神経系統の破傷風抗毒素性の研究」により医学博士号を取得大正8年
台湾電力株式会社を創立、初代社長(~ 1929年)昭和18年
12月23日逝去 (85才)
その他所外業務:臨時ペスト予防事務局顧問- 高野 六郎(たかの ろくろう)Open or Close
明治17年
9月3日、茨城県結城郡西豊田村に生まれる明治42年
東京帝国大学医科大学を卒業と同時に、国立伝染病研究所に入所大正6年
細菌学研究のため米国に留学大正7年
「補体結合作用に関する研究」により医学博士号取得大正9年
慶應義塾大学医学部教授、病理・細菌学を担当大正12年
内務省衛生局予防課長昭和5年
北里研究所監事昭和13年
厚生省の創立により初代の予防局長を務める昭和14年
結核予防会の設立に尽力し、理事を務める昭和17年
厚生省予防局を退官昭和21年
北里研究所理事昭和22年
北里研究所理事副所長昭和24年
北里研究所理事所長昭和27年
財団法人藤楓協会の設立に参画、初代理事長昭和35年
12月15日逝去(76歳)、勲一等瑞宝章受章
研究と業績:補体作用における特殊なメカニズム、補体結合試験用アンチゲンの製法、腸チフス菌凝集性の変化等と免疫反応に関する研究、コレラ菌と腸チフス菌の菌体毒素、感作コレラワクチンの実験的研究 チアノクプロールを用いた癩の治療実験
その他所外業務:日本医療団理事、細菌製剤協会初代理事長(昭和23年まで)、著書『予防医学ノート』『便所の進化』執筆- 田端 重晟(たばた しげあき)Open or Close
元治1年
4月12日(旧暦)、埼玉県比企郡小川町下里に生まれる明治13年
上京し、福澤門下となる明治21年
慶應義塾の別科を卒業し、北海道炭鉱鉄道会社に入社明治26年
土筆ケ岡養生園創設のために福澤諭吉に呼び戻され、事務長となる大正3年
北里研究所創立に参画大正7年
社団法人北里研究所社員昭和20年
2月12日、逝去(80歳)
業績貢献:福澤諭吉門下。
几帳面な性格で「土筆ヶ岡養生園」の運営を執り行っていた田端は、北里柴三郎から厚く信頼され、また、田端の裁量により養生園の蓄財があった為、大正3年、北里研究所創設の運用資金に役立ち、北里研究所の事業経営に尽力した。 社団法人北里研究所となった大正7年より社員(役員)として研究所の運営にも携わった。- 照内 豊(てるうち ゆたか)Open or Close
明治6年
2月14日、福島県福島市に生まれる明治21年
東京帝国大学医科大学を卒業
国立伝染病研究所に入所、同時に1年間助手として東京帝国大学医科大学の隈川教授の下で医科学を専攻明治37年
ドイツ留学(3年間、アミノ酸、蛋白化学、免疫等の研究)明治42年
「コブラ蛇毒の血球溶解素及び抗毒素」の研究により医学博士号取得明治43年
「クオリン血清沈殿反応」の研究により浅川賞受賞大正3年
国立伝染病研究所を依願免職、北里研究所創立に参画、北里研究所部長大正8年
慶應義塾大学医学科教授、医化学を担当昭和11年
3月25日逝去(63歳)
研究と業績:脚気のビタミンの研究- 戸田 寅治(とだ とらじ)Open or Close
慶応2年
1月14日、岩手県に生まれる明治16年
小学初等科教員免許を取得、同年から小学校で教鞭をとる明治19年
獣医学校へ入学明治22年
獣医学校を卒業、獣医開業免許を取得し、郷里で開業
栃木県足尾銅山獣医を嘱託される明治33年
国立血清薬院技師明治38年
国立伝染病研究所技手大正3年
国立伝染病研究所技手を依願免職
北里研究所の創立に参画、北里研究所助手昭和9年
北里研究所副部長昭和20年
北里研究所部長昭和25年
3月3日逝去(84歳)
業務:北里研究所飼畜部で馬体免疫、その他各種免疫血清の製造 - 高野 六郎(たかの ろくろう)Open or Close