生涯学習,北里柴三郎,公開講座,大学職員募集,シンポジウム

北里柴三郎記念室



展示室

生い立ち

  熊本県阿蘇郡小国町は阿蘇山の北方に位置し、大分県との県境に近い風光明媚な町である。北里家の先祖がこの地に移り住んだのは平安時代半ばのことで、それから数えて12代目綿貫妙義が、この地名にちなみ姓を北里と改め、その後代々総庄屋をつとめた。柴三郎は、父惟信、母貞の長男として誕生、幼少より厳しいしつけを受け、親戚に預けられて伯父から四書五経の手ほどきを受けた。明治の知識人の多くは幼少時に四書五経の素読を経験しているが、北里も長じてのちの思想や人生哲学の形成に多大な影響を受けている。


学生時代

  1871(明治4)年、熊本医学校に入学、そこでオランダ人医師マンスフェルトの指導を受けて医学の道を志し、さらに上京して東京医学校(のちの東京大学医学部)で学ぶ。在学中に著した演説原稿の「医道論」では、医の基本は予防にあるという信念を唱え、研究の成果は広く国民のために役立たせられるべきであると述べている。学問と実践を結びつけた実学の考えは、この時期から北里の確固たる思想となっていた。

医道論

内務省時代

  大学卒業後、内務省衛生局に奉職した。当初は照査課で外国文献の翻訳や、医術開業試験の実務に携わっていた。のちに東京試験所兼務となり、当時流行していたコレラや赤痢など国内の伝染病について調査研究を行った。


ドイツ留学時代・破傷風菌純培養に成功

  内務省での業績が認められ、明治18年ドイツ留学を命じられる。当時の病原微生物学研究の第一人者であったローベルト・コッホに師事し、破傷風菌の純培養に成功し、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見、これを応用した血清療法を確立した。この業績により一躍国際的な研究者として名声を博した。


帰国後の活動

  伝染病研究所の創立 1892(明治25)年に帰国した北里は、内務省の上司である長与専斎や衆議院議員長谷川泰らの奔走で、福沢諭吉や森村市左衛門らの援助を受けて私立伝染病研究所を芝公園に設立した。感染症の予防と治療法の研究に従事、また、1893(明治26)年、わが国最初の結核専門病院土筆ケ岡養生園を設立して結核予防と治療に尽力した。


ペスト菌の発見

  1894(明治27)年、北里は政府からの依頼により香港で発生したペストの原因調査のため、現地に派遣され、ペスト菌を発見した。この成果は直ちにイギリスの医学雑誌「ランセット」に発表された。


国立伝染病研究所へ

  私立伝染病研究所は最初の芝公園から芝区愛宕町に移転し、1899(明治32)年には国に寄付し、内務省管轄の国立伝染病研究所として、北里が所長に就任した。1906(明治39)年には、白金台に完成した新屋舎に移転した。北里とその門下生は、ここで多くの業績を挙げ、フランスのパストゥール研究所、ドイツのコッホ研究所と共に世界の三大研究所と並び称された。


北里研究所の設立

  1914(大正3)年、行政改革により伝染病研究所が文部省の管轄となることを機に退官し、新たに私立北里研究所を設立した。その後、1918(大正7)年、社団法人として認可され、2008(平成20)年、北里学園と統合し学校法人北里研究所として現在に至っている。


社会・教育活動

  ハブ毒の血清療法を確立した北島多一、赤痢菌発見者の志賀潔、サルヴァルサン(梅毒特効薬)を創製した秦佐八郎、寄生虫の研究で業績をあげた宮島幹之助、黄熱病の研究で有名になった野口英世など多くの優秀な弟子を育成した。


門下生

  ハブ毒の血清療法を確立した北島多一、赤痢菌発見者の志賀潔、サルヴァルサン(梅毒特効薬)を創製した秦佐八郎、寄生虫の研究で業績をあげた宮島幹之助、黄熱病の研究で有名になった野口英世など多くの優秀な弟子を育成した。

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栄誉

  北里は、その幅広い研究業績により日本はもとより各国から叙勲を受け、さらに学術団体の名誉会員推戴などの栄誉を受けた。

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外国の友人からの書簡

  世界的な学者であった北里は、海外の友人も多く、その書簡が多数遺されている。


家族・遺品

  北里は1883(明治16)年の東京大学医学部卒業と同時に、大蔵省官吏(後に第6代日本銀行総裁)松尾臣善の次女乕と結婚し、四男三女(三男は生後まもなく死亡)にめぐまれた。乕は内助の功で夫を支え、厳しく子供たちを育てた賢夫人であった。